10/2にいってきた、結縁灌頂。
もともとなぜ行こうと思ったかといえば、理趣経に関係のある金剛界の仏様とご縁を結ぶから。
結縁灌頂自体は今の私にとって本当に必要だったかというとちょっとギモンだ。
だからあんまり積極的に時間をつくっていくというよりも、もしもいけそうだったら行こう、そんな風に考えていた。
ただなんとなく今後の行のことも考えるといきたいなぁ。。。という程度。でも時間が空いた、行こう!と決めたとたん、ぱたぱたと周りのほうも整ってきた。
私のラッキーナンバーは5と2だ。
なにかと数字に絡むものがでてくるとそれによって幸運、不運を占ってみたりしてる。
たとえば、夜行バスの座席番号。切符の番号。待ち行列のチケットの番号。。。。等々。
これらがどういうわけか、すべて5が絡む数字が出てきていたので、なんとなく、今回の高野山行きは悪いことじゃないんじゃないかなぁ。。。と思った。
実際、思ったとおりにことが運んでるし。
行く道すがら、やっぱりいろいろなことが頭をよぎった。
でもその一つ一つはとっても貴重だ。
たとえば、夜行バスの中、いろいろな人に話しかけられたり。
でもそうやって会話していく中で、なんとなく、人と会話しないとだめなんだ。。。。って思った。
自分の中だけで完結している行なんて、所詮自分の中から出られない。周りとかかわってその世界を広げていくことで初めて自分の中の世界も広げることができるし、そうしないと本来の行の意味をなさないんじゃないかしらん。
今年の初め、比叡山の寒行にいったとき話しかけられてしまってお友達になってしまうことが苦痛だった。だって遊びに行ったり友達つくりに行ったわけじゃないのにって思った。
であれば、周りの人間と全くかかわらず、交流せず、自分の世界の中だけに閉じて行をしてたらどうだろう。
それはそれで楽だったかもしれないけれども、結局自分という井の中の蛙でしかなくなってしまう。
なんとなく、それがふっと納得できたというか腑に落ちたというか。。。。
頭でわかるんではなく、心でわかった感じがした。
だから、おしゃべりしたりすることをなんだか楽しむことができた。
あとは情報が自分の中で混乱し始めていることを自覚。
私ってちょっと頭がおかしくなっちゃった?って一瞬不安にもなったけれども、ほんの一瞬だけ。
なにがもとで混乱しているのかはわからなかったけれども、きっといろいろな情報がキャッチできるのは悪いことじゃないんじゃない?と勝手に思ってた。みんなの話を聞いているとこんなもんなのかしら?やっと私も少しは感覚があがってきたのかしら?なんてうぬぼれたりして。
でも帰ってきて当日先生にお話して、本などで得た情報が混乱して頭の中で錯綜していることが原因で、これ自体あんまり良くないことだってわかった。
やっぱりみんな(みんなってだれってわけじゃないけど)というかほかの人はとてもわかるのに、私自身の感覚がそれほど鋭くない、わからないということで焦りとか劣等感とかが原因だと思う。
ま、要するに「もっともっと!!!」と思って自分でモウソウ状態をつくちゃったんだろな。
実際の結縁灌頂は退蔵界のときと違ってちゃんと集中できたので結構面白い経験だったと思う。なんだか右も左も上も下もわからないような感覚になってみたりして。
洒水加持をしてもらったときはやっぱり胎蔵界のときと同じくやっぱり心に来るものがあった。
被りがとれたり自分がお清めというか、きれいになっている感覚があったし、そのせいか前回と一緒でなんだか知らないけど涙が出てきた。五鈷杵を手に持たされながらそれが仏の智慧をあらわし、それをを手荷物ことにより授けられるのだと聞いたのだけれども、なんとなく、その智慧について、手から伝わってきた気がした。あまりにも膨大であまりにも。。。。。。。。表現できないものが五鈷杵を通じてつたわってくるというか。法具たった一つなんだけれどそれを入り口としてとんでもない膨大な情報量、見たこともない量のものがつながっているというか。うまくいえないが、今まで法具の存在意義というかそういうものって感じたことあんまりなかったのだけれども、だから五鈷杵があるのね。。。。ってそんなかんじ。
ただ、情報がぐちょぐちょになっている状態で感じただけだし、それすらもぐちょぐちょの一部だったような気もするから、本当のところはどういうもんなのか。。。。わからない。
奥の院では空海さんが本当にお坊さんだったんだってことを感じ取った。
結縁灌頂は目隠しをされながらお坊さんに導かれて堂内を歩くのだけれども、そうやって手を引いてくださったお坊さん方・・・目隠しをしていたから実際どういう人が手を引いてくれたのかはさっぱり見えていなかったけれども、その何人かの方、、、それぞれ違う人だけれども共通して持っている波動。。。。みたいなものとおなじものを感じた。
ほかにもなんとなく会話というか交流してたと思うが、どういう情報をやりとりしていたのかはいまいち言葉にできない。
でも帰ってきて先生とお話しするとそのアクセス先もいまいち間違っていた。。。。というかわかっていなかったことがわかった。
本来話すべきは空海ではなく、遍照金剛だったみたい。
なんで、じゃぁ魂がもうすでに遍照金剛になっているのに空海と話ができるのかしらん???とちょっと今書いていて疑問が出てきたが、きっと今読んでいる本の理解が進むにつれてわかってくるのかもしれない。
一気に書いてみたが。。。。とりあえず、高野山参りの覚書として。
もともとなぜ行こうと思ったかといえば、理趣経に関係のある金剛界の仏様とご縁を結ぶから。
結縁灌頂自体は今の私にとって本当に必要だったかというとちょっとギモンだ。
だからあんまり積極的に時間をつくっていくというよりも、もしもいけそうだったら行こう、そんな風に考えていた。
ただなんとなく今後の行のことも考えるといきたいなぁ。。。という程度。でも時間が空いた、行こう!と決めたとたん、ぱたぱたと周りのほうも整ってきた。
私のラッキーナンバーは5と2だ。
なにかと数字に絡むものがでてくるとそれによって幸運、不運を占ってみたりしてる。
たとえば、夜行バスの座席番号。切符の番号。待ち行列のチケットの番号。。。。等々。
これらがどういうわけか、すべて5が絡む数字が出てきていたので、なんとなく、今回の高野山行きは悪いことじゃないんじゃないかなぁ。。。と思った。
実際、思ったとおりにことが運んでるし。
行く道すがら、やっぱりいろいろなことが頭をよぎった。
でもその一つ一つはとっても貴重だ。
たとえば、夜行バスの中、いろいろな人に話しかけられたり。
でもそうやって会話していく中で、なんとなく、人と会話しないとだめなんだ。。。。って思った。
自分の中だけで完結している行なんて、所詮自分の中から出られない。周りとかかわってその世界を広げていくことで初めて自分の中の世界も広げることができるし、そうしないと本来の行の意味をなさないんじゃないかしらん。
今年の初め、比叡山の寒行にいったとき話しかけられてしまってお友達になってしまうことが苦痛だった。だって遊びに行ったり友達つくりに行ったわけじゃないのにって思った。
であれば、周りの人間と全くかかわらず、交流せず、自分の世界の中だけに閉じて行をしてたらどうだろう。
それはそれで楽だったかもしれないけれども、結局自分という井の中の蛙でしかなくなってしまう。
なんとなく、それがふっと納得できたというか腑に落ちたというか。。。。
頭でわかるんではなく、心でわかった感じがした。
だから、おしゃべりしたりすることをなんだか楽しむことができた。
あとは情報が自分の中で混乱し始めていることを自覚。
私ってちょっと頭がおかしくなっちゃった?って一瞬不安にもなったけれども、ほんの一瞬だけ。
なにがもとで混乱しているのかはわからなかったけれども、きっといろいろな情報がキャッチできるのは悪いことじゃないんじゃない?と勝手に思ってた。みんなの話を聞いているとこんなもんなのかしら?やっと私も少しは感覚があがってきたのかしら?なんてうぬぼれたりして。
でも帰ってきて当日先生にお話して、本などで得た情報が混乱して頭の中で錯綜していることが原因で、これ自体あんまり良くないことだってわかった。
やっぱりみんな(みんなってだれってわけじゃないけど)というかほかの人はとてもわかるのに、私自身の感覚がそれほど鋭くない、わからないということで焦りとか劣等感とかが原因だと思う。
ま、要するに「もっともっと!!!」と思って自分でモウソウ状態をつくちゃったんだろな。
実際の結縁灌頂は退蔵界のときと違ってちゃんと集中できたので結構面白い経験だったと思う。なんだか右も左も上も下もわからないような感覚になってみたりして。
洒水加持をしてもらったときはやっぱり胎蔵界のときと同じくやっぱり心に来るものがあった。
被りがとれたり自分がお清めというか、きれいになっている感覚があったし、そのせいか前回と一緒でなんだか知らないけど涙が出てきた。五鈷杵を手に持たされながらそれが仏の智慧をあらわし、それをを手荷物ことにより授けられるのだと聞いたのだけれども、なんとなく、その智慧について、手から伝わってきた気がした。あまりにも膨大であまりにも。。。。。。。。表現できないものが五鈷杵を通じてつたわってくるというか。法具たった一つなんだけれどそれを入り口としてとんでもない膨大な情報量、見たこともない量のものがつながっているというか。うまくいえないが、今まで法具の存在意義というかそういうものって感じたことあんまりなかったのだけれども、だから五鈷杵があるのね。。。。ってそんなかんじ。
ただ、情報がぐちょぐちょになっている状態で感じただけだし、それすらもぐちょぐちょの一部だったような気もするから、本当のところはどういうもんなのか。。。。わからない。
奥の院では空海さんが本当にお坊さんだったんだってことを感じ取った。
結縁灌頂は目隠しをされながらお坊さんに導かれて堂内を歩くのだけれども、そうやって手を引いてくださったお坊さん方・・・目隠しをしていたから実際どういう人が手を引いてくれたのかはさっぱり見えていなかったけれども、その何人かの方、、、それぞれ違う人だけれども共通して持っている波動。。。。みたいなものとおなじものを感じた。
ほかにもなんとなく会話というか交流してたと思うが、どういう情報をやりとりしていたのかはいまいち言葉にできない。
でも帰ってきて先生とお話しするとそのアクセス先もいまいち間違っていた。。。。というかわかっていなかったことがわかった。
本来話すべきは空海ではなく、遍照金剛だったみたい。
なんで、じゃぁ魂がもうすでに遍照金剛になっているのに空海と話ができるのかしらん???とちょっと今書いていて疑問が出てきたが、きっと今読んでいる本の理解が進むにつれてわかってくるのかもしれない。
一気に書いてみたが。。。。とりあえず、高野山参りの覚書として。

