空を意識して勤行してみた。
自分の枠もなくなってただお経の音だけ。
お経が自分の周り、人、もの、ことにもしみ込むように。
音だけになると、しみ込むなんて考えなくてもそこに「ある」と言う存在、
それだけでほかのものと一体化し、同じになる気がする。
詠み進んで陀羅尼が終わるころに見たこともない映像、それも人が動いて何かしている動画が目の前に飛び込んできた。
一瞬、「??」って思ったけれどもそれに惑わされてはいけないと思ってまた音だけに意識を戻してみた。
それでも何かの絵だったり、音だったり、自分の読経に混じって音楽だったりが去来した。
今回はそれを拒否する、、、とまでは考えてないけれども、無視する形で勤行を進めたけれども
その映像だったり音だったり音楽だっがりがそこに「在る」、というだけで、良いも悪いもなく、追いかけることもなく、拒否することもなく、こだわらないことが「空」なんだと思う。
まだまだだ><
ただただ、「在る」ということ。
勤行が終わってたばこをすっているときに、タバコをすうという動作自体も同じように「空」になるようにできるんじゃないかって思った。
ただ吸って、ただ吐いて。
揺れる煙とひとつになるようにただ見つめたり。
勤行以外にもそういう場って日常生活にはたくさんたくさんあるんだろうなぁ。。。。と思った。
自分の枠もなくなってただお経の音だけ。
お経が自分の周り、人、もの、ことにもしみ込むように。
音だけになると、しみ込むなんて考えなくてもそこに「ある」と言う存在、
それだけでほかのものと一体化し、同じになる気がする。
詠み進んで陀羅尼が終わるころに見たこともない映像、それも人が動いて何かしている動画が目の前に飛び込んできた。
一瞬、「??」って思ったけれどもそれに惑わされてはいけないと思ってまた音だけに意識を戻してみた。
それでも何かの絵だったり、音だったり、自分の読経に混じって音楽だったりが去来した。
今回はそれを拒否する、、、とまでは考えてないけれども、無視する形で勤行を進めたけれども
その映像だったり音だったり音楽だっがりがそこに「在る」、というだけで、良いも悪いもなく、追いかけることもなく、拒否することもなく、こだわらないことが「空」なんだと思う。
まだまだだ><
ただただ、「在る」ということ。
勤行が終わってたばこをすっているときに、タバコをすうという動作自体も同じように「空」になるようにできるんじゃないかって思った。
ただ吸って、ただ吐いて。
揺れる煙とひとつになるようにただ見つめたり。
勤行以外にもそういう場って日常生活にはたくさんたくさんあるんだろうなぁ。。。。と思った。

