同じ事をわかっているのに何度も繰り返す。。。って人、居ますよね。
そういう人って結局それで問題がでてきても結局その中は何にも反省してない。
反省しているそぶりは見せても結局何も変わってなかったりします。
本当に本人自身は「ここはそぶりをみせておこう」なんてつもりはなくても
結果的にはそぶりを見せているだけ。
反省するからにはなにがしか必ず変化が生じるはずですし、そうでなければ
反省しているとはいえません。
そういう人の問題が起きたときの対処法は「じっと嵐が過ぎ去るのを待つ」
耳や目をふさいで頭を抱えてじっとしているわけです。
それでは周りの誰かが真剣に思い、真剣に声をかけても届きません。
そして、また嵐が過ぎ去ってほとぼりが冷めたら同じ事の繰り返し。
結局、「懲りない人」と言われる人はそういう人なのかも。
じゃぁ、どうやって言葉を届かせ、どうやってその人が変わるようにするのか。
悲しい事ですが、人間は自分自身でなければ変わりません。
本人が変わろうと思い、本気で自分の問題に向かなければ、変わる事はできません。
心を入れ替えるというのは周りがなんとかすることはできないのです。
「それがその人だから」とあきらめるのか。
それでもなお届かぬ声を届けようと努力し続けるのか。
それはその身近に居る人たちの選択です。
でも本気で相手の事を思うのならば、届かぬ声を届ける努力をし続けたい。
それが表面上の行動が見捨てる形になったとしても、
打ち砕く形になったとしても、それは相手を見捨てない事だと思います。
あきらめて「見捨てるのか」、その人のほんのわずかな可能性にかけて「見捨てるのか」。
懲りない人にとっては最初は同じように移るかもしれませんが
いつかはその真意が伝わる日が来るかもしれません。
いつでも相手に対して本気で向かうことができたら一番だと思います。
そういう人って結局それで問題がでてきても結局その中は何にも反省してない。
反省しているそぶりは見せても結局何も変わってなかったりします。
本当に本人自身は「ここはそぶりをみせておこう」なんてつもりはなくても
結果的にはそぶりを見せているだけ。
反省するからにはなにがしか必ず変化が生じるはずですし、そうでなければ
反省しているとはいえません。
そういう人の問題が起きたときの対処法は「じっと嵐が過ぎ去るのを待つ」
耳や目をふさいで頭を抱えてじっとしているわけです。
それでは周りの誰かが真剣に思い、真剣に声をかけても届きません。
そして、また嵐が過ぎ去ってほとぼりが冷めたら同じ事の繰り返し。
結局、「懲りない人」と言われる人はそういう人なのかも。
じゃぁ、どうやって言葉を届かせ、どうやってその人が変わるようにするのか。
悲しい事ですが、人間は自分自身でなければ変わりません。
本人が変わろうと思い、本気で自分の問題に向かなければ、変わる事はできません。
心を入れ替えるというのは周りがなんとかすることはできないのです。
「それがその人だから」とあきらめるのか。
それでもなお届かぬ声を届けようと努力し続けるのか。
それはその身近に居る人たちの選択です。
でも本気で相手の事を思うのならば、届かぬ声を届ける努力をし続けたい。
それが表面上の行動が見捨てる形になったとしても、
打ち砕く形になったとしても、それは相手を見捨てない事だと思います。
あきらめて「見捨てるのか」、その人のほんのわずかな可能性にかけて「見捨てるのか」。
懲りない人にとっては最初は同じように移るかもしれませんが
いつかはその真意が伝わる日が来るかもしれません。
いつでも相手に対して本気で向かうことができたら一番だと思います。
今日、帰ってきたら、たまたまCSで映画をやっていた。
昔子供の頃によくビデオで見たアッシジの聖フランチェスコの話が
また別の映画として撮られたもの。
途中からだったけれども、思わず見ていた。
その中で「心の平和を」という言葉が印象的だった。
なんとなく、その言わんとしている心の平和って仏教で言うところの「空」の境地ににているのではないかなぁ。。。と思った。
聖フランチェスコというと清貧のイメージがあるのだけれども、究極の心の平和だったり「空」の状態になることができれば、衣食住にこだわること自体、あまり意味をなさなくなるから不要になる、ということではないかしらん。
キリスト教と仏教は考え方がちがうものだけれども、その一部においては何らかしら共通する物があるのかも。
それが宗教の存在理由のひとつなのかもなぁ。。。。なんて思う。
結局は心が平和であれば。また「空」であれば何事にもとらわれずにすむから。
感情やその他自分からわき上がってくるモノ、周囲のものに囚われずに生きられたら
最高だなぁ。。。
昔子供の頃によくビデオで見たアッシジの聖フランチェスコの話が
また別の映画として撮られたもの。
途中からだったけれども、思わず見ていた。
その中で「心の平和を」という言葉が印象的だった。
なんとなく、その言わんとしている心の平和って仏教で言うところの「空」の境地ににているのではないかなぁ。。。と思った。
聖フランチェスコというと清貧のイメージがあるのだけれども、究極の心の平和だったり「空」の状態になることができれば、衣食住にこだわること自体、あまり意味をなさなくなるから不要になる、ということではないかしらん。
キリスト教と仏教は考え方がちがうものだけれども、その一部においては何らかしら共通する物があるのかも。
それが宗教の存在理由のひとつなのかもなぁ。。。。なんて思う。
結局は心が平和であれば。また「空」であれば何事にもとらわれずにすむから。
感情やその他自分からわき上がってくるモノ、周囲のものに囚われずに生きられたら
最高だなぁ。。。


